元夫と同じ屋根の下にいるのがしんどい
もともと胸の奥にあった「同じ屋根の下にいるのがしんどい」という漠然とした感覚が、あの旅を境にはっきりと浮き彫りになったのだと思う。
何かが急変したわけではない。
上の子が大学生になり、下の子も高校から寮生活を始めた頃だった。子どもたちの手が離れるのと同時に、私は一人で出かけたり、一人で行動したりすることが増えていった。
もともと、見知らぬ街へ出かけ、気の向くままに自分のペースで歩くのが好きだった。子どもたちの手が離れたことで、以前より自由に出かけられるようになったことが、私にとっては心地よかった。
その傍らには、愛犬のトイプードル、ぽんちゃんがいた。

愛犬と放浪した日々
ぽんちゃんは、子どもたちがまだ小学校低学年の頃に迎えた子だった。子どもたちが犬を飼いたいと言ったとき、元夫は反対していた。なぜ反対していたのかは覚えていないが、なぜ元夫の反対に従わなければならないのか納得がいかず、子どもたちの望みを優先して、私は愛犬のぽんちゃんを迎えた。
一般的な賢い妻ならば、配偶者の意見にしたがうのかもしれない。けれど、私はそれまでの色々な経緯から、配偶者であった元夫の意見に従うことに拒否感を覚えていた。
そのぽんちゃんを連れ、家族であちこちに出かけていたためか、車に乗ってお出かけするのが大好きだった。車のドアを開けると、真っ先に車に乗り込んでくる。
いつも車に乗せて連れて行けるわけではないので、仕方なくぽんちゃんを下ろして家に置いていくと、とても寂しそうな鳴き声を出す。その声が愛おしかった。
そのぽんちゃんは、東北から四国、九州まで、いろんなところに上陸している。トイプードルという立場ながら、かなりの旅行をしているわんこなのではないかと思う。長距離ドライブでは、トイレのタイミングを切なそうに吠えて教えてくれた。
私は、日光東照宮、宮島、出雲大社、富岡製糸場など、歴史のある場所を巡るのが好きだった。大きな目的地だけを決めて、細かな行き先はぽんちゃんと一緒に気ままに巡った。
そうして家から離れ、車を走らせている間は、元夫の存在を忘れることができた。車に乗って遠くへ行けば、そこには私と犬だけの時間がある。その時間が、とても心地よかった。
夫婦でありながら「存在を忘れたい相手」と暮らすことに、一体どんな意味があるのだろう。そんなことを、ふと考えることもあった。
当時は、月に一度のペースで少し足を伸ばして家から離れていた。頻繁に一人で出かけていたことを、元夫は最後まで知らなかったと思う。
私は、できるだけ家に遅く帰るようにもなっていた。そうしてまで家にいたくないのなら、なんのための家なのか、自分でも分からなくなっていった。

歩み寄ることを、完全にやめた
「この人と旅行へ行くのは、もう無理」と感じた伊豆での出来事以来、元夫と一緒に出かけることは二度となかった。
元夫に歩み寄ることを完全にやめてからの一人の時間は、とても心地よかった。
それまで、私は元夫を頼ることなく、一人でなんとか乗り越えてきた。子どもたちが手を離れると、元夫を頼る必要性も、それまで以上になくなっていった。
そうなると、元夫の存在そのものが、私には必要なのか分からなくなってきた。
必要なのは、子どもたちの学費だけだった。
そのためだけだったので、二人の関係をどうすれば保てるか、どうすれば修復できるか。そんなことを考えることもなくなっていた。
学費自体は元夫が支払っていたが、学費を支払う必要がなくなれば、私はこの家を出て行ける。そんなことしか考えていなかった。
私が家を出ることになれば、学費の支払いが滞るかもしれない。そう思うと家を出るという行動に移すことはできなかった。自分が人質にでもなったような気分だった。
そんな卑怯なことを考えずに、自分が払えば良かったのだとも思う。けれど、そんな楽なことをさせてたまるかと、私の嫌な根性が蔓延っていた。
こんなことを考えている妻が、いつまでも一緒にいるわけがない。私は歩み寄ろうともしなくなり、関係を修復する努力も手放していた。
こうやって当時の記憶や気持ちを思い起こしていくと、元夫が何を考え、どう思っていたのか、全く分からないことに今になって気づく。
それまで一人で踏ん張ってきた私からすると、元夫の気持ちや考えなんて、どうでもよかった。
こんなことを書き連ねているなんて、なんて薄情で自分勝手な人間だと思われるかもしれないが、それが私の選んだ道。
夫婦の正解って何だろう
最近、私より少し年上の女性と知り合う機会があった。彼女もまた、ご主人と同じ空間にいるのが辛く、よく一人で出かけているのだという。
少し似た境遇だと思った。
それでも、彼女は「離婚しない」という道を選んでいる。その話を聞いて、私は「私とは違うな」と思った。
夫婦でいることに息苦しさを感じながらも、それでも一緒にいる道を選ぶ人がいる。一方で、私は手放す道を選んだ。
どちらが正しいという話ではない。
夫婦とは、ある種の修行のような関係性なのかもしれないと思った。
相手に合わせたり、我慢したり、折り合いをつけたり。そういうことを繰り返しながら、夫婦として続けていくものなのかもしれない。
だとすれば、私はその修行を、途中で放棄したことになる。
もちろん、離婚した決断に悔いはない。それでも、時折、答えのない問いが胸をかすめる。
夫婦の正解とは、一体何なのだろうか。



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